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AKK ニューズ・レター 第64号

2007年9月1日

アデイクシヨン問惠を考えよう会。かがわ(AKK)

代表 後藤見知子

尾崎放哉(おざきほうさい)と南郷庵(みなんごあん)

 尾崎放哉(おざきほうさい)と南郷庵(みなんごあん)夏のカンカン照りの1日、小豆島土庄の南郷庵(みなんごあん)を訪ねた。
 入れものが無い両手で受ける自由律俳人、尾崎放哉(おざきほうさい)の有名な俳句だが、この放哉が最後のひと冬を過ごしたのが、この小豆島の南頻晦だ。土庄港に上陸し、歩くこと30分で西光寺に着く。さらに家々にはさまれた、細く曲がりくねった路地を抜けると、山の斜面を利用して造られた墓群に出る。その入り口にひっそりとたたずむように、南郷庵はある。
 墓群の墓守りの粗末な住まいだったらしい。放哉は、大正14年の8月より、翌15年の4月、喉頭結核で息を引きとるまでの8カ月間を、その庵主として過ごした。今は、当時の家屋をそのまま復元し、尾崎放哉記念館』として、開かれている。
 入館料を支払い、なかに入ってみた。当時の手紙、書簡、短冊などが、所狭しと展示されている。入口の正面に放哉の顔写真が掲げられていた。結婚式のときの写真だろうか?口もとをきゅつと引きしめ、希望に満ちあふれた表情をしている。この時、その後の凄惨な生き方を誰が想像しただろう。
 明治18年、鳥取市生まれ。本名秀雄。−校を経て、東大法科卒業後、保険会社の要職につく。将来の栄達を約束されながら、妻の薑と結婚するも、酒乱の悪癖のため退職、次の職場でも酒での失敗をくりかえし、退職を余儀なくされた。その後、妻の馨とも別れ、京都の寺で修行生活をしながら、酒を断ち切ろうとするも失敗〜各地の寺々を転々とし、托鉢生活に入る。
 一方、一校時代、−級先輩で、自由律$j肉の創始者〈.萩原丼泉水(せいせんすい)と出会い、師事。若いころより、同人誌『層雲』で活躍ずち。{南郷庵に身を寄せられたのも、丼泉水の尽力によるものだった。
 咳をしても一人小豆島時代の放哉には、秀句が多い。たった7文字のなかで、自分の思いを表現している。俳句が究極の文学といわれる所以だが、放哉の俳句からは、寂しさや孤独感しか伝わらない。放哉の置かれた境遇が、そういう俳句を作らせたのか?やり場のない寂しさから逃れるために、酒を飲む。−時の幸せに浸れるが、酔いが覚めてくるとまた寂しくなり酒を飲むという悪循環をくりかえす。小豆島でも放哉の酒は止まることがなかった。私自身、20代でアルコール依存症にかかり、30代で断酒会に入会せざるをえなかった。何度も酒を断ち切ろうとして、失敗をくりかえした私には、放哉の気持ちが少しわかる。
 放哉の時代に、断酒会があれば、放哉は断酒を果たしただろうか?断酒をしようが、しまいが、少なくとも小豆島まで流れてくることはなかったのではないだろうか?ある座談会の席で、私は放哉のことで、ある女性と論争を交わしたことがある。
 「こんな男、私は絶対に認めない。妻も養えないような男・・・・・・」「だって、アルコール依存症っていう病気だったんでしょう?」女性の辛辣な意見に、私はささやかながらも反論を試みた。
 「なにが病気よ、妻の篝はね、死に急いだ放哉よりも、もっと短い生涯だったのよ」確かに42年という放哉の生涯に対し、妻の馨は38歳でチフスにかかって亡くなっている。
 「・・・・・・」それ以上反論を試みても、火に油をそそぐような状況になりかねない剣幕だったので、私は自分の意見を、遠慮せざるをえなかった。だが、心のなかでは、「でも病気ではないか」と何度も何度も反芻していた。
 アルコール依存症という病気の場合まず病気として見てもらえることは少ない。意志が弱い、だらしがないなど、個人の人格の問題に帰せられることが多いようだ。家族や周囲の人々に対して散々迷惑をかけてきたという点では、まったく弁解の余地がないのだが、、当事者にとって、これほどつらいことはない。
 障子あけて置く海も暮れ切る南郷庵のなか、南向きに半畳ほどの障子まどがひとつあった。今は、家々の瓦屋根しか見ることができないが、当時、海が見えたであろうその窓から、放哉は、一体どのような思いで、瀬戸の夕暮れをながめたのであろうか?
(香川県断酒会 福家啓之)

■今後の予定
 平成19年10月13日、14:00〜16:00
 レクチャー「自傷行為について」 精神科医 小笠原一能氏
(※レクチャー後、質疑応答もしていただきます)
ご関心をお持ちの方、お誘い合わせのうえ、多数のご参加ご出席、お待ちしております。